2007年 02月 11日
春にして君を想う |
晴れ。12.8℃/7.1℃/19%/888day
昨夜は激しい春雷に襲われた。
水瓶の底が抜けたような激しい雨に冬の空気は洗い流されて、今朝は暖かい湿り気をともなった春の気配がした。僕が育てているしだれ桜の芽も順調に成長してきていて、来月には淡雪のような開花を楽しめることだろう。これが祖母と観る最後の桜になるとはね。
正月を過ぎた後、祖母はよく発熱するようになった。
医者も、薬剤師の両親も原因がわからないと、抗生物質と解熱剤を服用させて様子見を続けていた。解熱剤を飲ませるとおもしろいくらいに熱が引く。でも体力は確実に奪われていった。
手をこまねいている関係者に向かって、先月末さすがに「発熱してるってことは炎症が起きているということだろ?状況から引き算してみれば子供でもわかる。大きな傷がなければウィルス性のものか、腫瘍か、原因はそんなところだろ?ぐずぐずしてないで徹底的に検査にかけろ!」と強硬に主張した。
「素人になにがわかる!」とオヤジには睨め付けられたけれど、翌日かかりつけの市立病院で徹底的な検査をした。異変はその晩のカンファレンスで報告され、翌日から国立がんセンターへの転院の手配が始まった。そして1週間後に判明したのが膵臓ガン。余命3~6ヶ月の宣告だった。手術をする体力がないとの判断から、積極治療は行わない方針で関係者は合意した。
こうなると一番の専門家の父親がダメダメで、医学的なディシジョン以外は僕がオペレーションしている。"白州次郎"ですら実母が亡くなったときは支えを失ったようで腑抜けになったと告白しているくらいだから、弱気になっている彼を責める気はない。ただ
「残り短い人生だからわがままになるかもしれん。そこは大目に見てやってくれ」
「わかった。その分負荷がかかるオフクロさんのケアは忘れないで」
「…………」(睨め付けられる)
結局、妻に対する彼のバランス感覚は壊れたままなんだなと少し情けなかった。
もう10年以上昔になるか?文藝春秋で作家柳田邦男氏と聖路加病院医師細谷亮太氏の共著記事を読んだ。これは実の息子が自殺した直後で"犠牲(サクリファイス)"を出版したりと柳田氏が少しおかしくなっていた時期に発表されたものだった。テーマは"Death Education"(デス・エデュケーション)。
"Death Education"……死への準備教育とは、人間らしい死を迎えるにはどうすべきか、に関する教育とされる。ただ、前述の共著ではもうちょっと趣旨が違っていたような気がする。
死のニオイがぬぐい去られた現代の街はとてもクリーンだ。
いまの子供たちは道ばたで動物の死体を見かけたりすることはないだろう。僕が子供の頃には通学路に鳥が落ちていたり、犬が死んでいたりと、多少なりとも死を目撃してきた。いまは核家族化が進んでいるから老人と同居した経験を持つ子供は少ないし、ましてやほとんどの人が病院のベッドで臨終を迎えるご時世だ。日本人にとって死は他人事でもある。
前述の著作の中で「自らの死んでゆく姿を家族たちに見せること。よく死ぬことを通じて、尊厳を持って人生の終わりを意義あるものに昇華してみせるのも、よく生きることである」ようなことが書いてあったように思う(記憶違いだったらゴメン)。これが身近にあるDeath Eduactionなのだと。昔の家庭では当たり前の光景だったそうだが。
「オレはもうだめだ……残念だ」
16年前に祖父が亡くなったとき、僕に発した最後のメッセージは「残念だ」であった。やり残したことがあって無念であるとかではなく、おまえとはもう会えなくなる、声を聴くこともかけることもできなくなる。その別れが残念だ……という意味だったのだろうと、僕はいまでも思っている。僕はもっともかわいがられた初孫だったから。
生前にはいろいろと迷惑をかけられて、祖父にはうんざりしていたが、そのとき僕はもうすべてを許そうと思った。力なく握られた指先から流れ込んでくる圧倒的な感情の波に僕は押し流された。
それから5日後、しんしんと雪が降り積もる明け方に祖父は息を引き取った。その数時間前、どんどん冷たくなってゆく手足をみんなで泣きながらさすり続けた。呼吸がだんだん浅くなって、やがてヒュッという小さな音がしたあと、もう戻ってこなかった。あの圧倒的な肉の冷たさを指先が覚えているから、自分の手足が凍えると病室で過ごしたあの数時間のことを思い出す。
朝、新潟県全域の雪雲が除けられて、透明な青空が広がった。病院の入り口で、時間つぶしに薄く張った氷を靴先で破るたび「パリン、パリン」と脆いガラスが砕け散るような音がした。「しみわたりだよ」と母が言った。
雪の上を渡ってくる風がやけに冷たかった。コートをかき合わせてクルマに乗り込んだ。祖父を乗せて自宅へ向かう霊柩車に続く車列に加わった。みな黙りこくっていて車内は静まりかえっていた。そんなことを記憶している。
不可逆的に流れていく時間の中で、僕らはどうしたらよく生きてゆけるのだろうと思い悩む。いまから16年前、僕は「じいちゃん、立派だったよ」と思うにいたった。それ以前から僕は「死」というものをあまり恐れてはいなかったが、祖父の死に目に立ち会ってからさらに恐れはなくなった気がする。「死」を目撃しても僕らは生きてゆかねばならないし、生きてゆく。そしていつか自分の死を受け入れる。そういうものなんだと。
えらそうなことを言ってきましたけれど、別に達観しているわけじゃないんだ。
どんな形であれ「さびしいな」……そんな気持ちは自分の死の間際まで残るんだと思うから。
"Death Education"絡みでいくつか絵本が紹介されてます。
そのうちの一つ"いつでも会える"は、引用された見開き1ページで号泣させられました。
昨夜は激しい春雷に襲われた。
水瓶の底が抜けたような激しい雨に冬の空気は洗い流されて、今朝は暖かい湿り気をともなった春の気配がした。僕が育てているしだれ桜の芽も順調に成長してきていて、来月には淡雪のような開花を楽しめることだろう。これが祖母と観る最後の桜になるとはね。
正月を過ぎた後、祖母はよく発熱するようになった。
医者も、薬剤師の両親も原因がわからないと、抗生物質と解熱剤を服用させて様子見を続けていた。解熱剤を飲ませるとおもしろいくらいに熱が引く。でも体力は確実に奪われていった。
手をこまねいている関係者に向かって、先月末さすがに「発熱してるってことは炎症が起きているということだろ?状況から引き算してみれば子供でもわかる。大きな傷がなければウィルス性のものか、腫瘍か、原因はそんなところだろ?ぐずぐずしてないで徹底的に検査にかけろ!」と強硬に主張した。
「素人になにがわかる!」とオヤジには睨め付けられたけれど、翌日かかりつけの市立病院で徹底的な検査をした。異変はその晩のカンファレンスで報告され、翌日から国立がんセンターへの転院の手配が始まった。そして1週間後に判明したのが膵臓ガン。余命3~6ヶ月の宣告だった。手術をする体力がないとの判断から、積極治療は行わない方針で関係者は合意した。
こうなると一番の専門家の父親がダメダメで、医学的なディシジョン以外は僕がオペレーションしている。"白州次郎"ですら実母が亡くなったときは支えを失ったようで腑抜けになったと告白しているくらいだから、弱気になっている彼を責める気はない。ただ
「残り短い人生だからわがままになるかもしれん。そこは大目に見てやってくれ」
「わかった。その分負荷がかかるオフクロさんのケアは忘れないで」
「…………」(睨め付けられる)
結局、妻に対する彼のバランス感覚は壊れたままなんだなと少し情けなかった。
もう10年以上昔になるか?文藝春秋で作家柳田邦男氏と聖路加病院医師細谷亮太氏の共著記事を読んだ。これは実の息子が自殺した直後で"犠牲(サクリファイス)"を出版したりと柳田氏が少しおかしくなっていた時期に発表されたものだった。テーマは"Death Education"(デス・エデュケーション)。
"Death Education"……死への準備教育とは、人間らしい死を迎えるにはどうすべきか、に関する教育とされる。ただ、前述の共著ではもうちょっと趣旨が違っていたような気がする。
死のニオイがぬぐい去られた現代の街はとてもクリーンだ。
いまの子供たちは道ばたで動物の死体を見かけたりすることはないだろう。僕が子供の頃には通学路に鳥が落ちていたり、犬が死んでいたりと、多少なりとも死を目撃してきた。いまは核家族化が進んでいるから老人と同居した経験を持つ子供は少ないし、ましてやほとんどの人が病院のベッドで臨終を迎えるご時世だ。日本人にとって死は他人事でもある。
前述の著作の中で「自らの死んでゆく姿を家族たちに見せること。よく死ぬことを通じて、尊厳を持って人生の終わりを意義あるものに昇華してみせるのも、よく生きることである」ようなことが書いてあったように思う(記憶違いだったらゴメン)。これが身近にあるDeath Eduactionなのだと。昔の家庭では当たり前の光景だったそうだが。
「オレはもうだめだ……残念だ」
16年前に祖父が亡くなったとき、僕に発した最後のメッセージは「残念だ」であった。やり残したことがあって無念であるとかではなく、おまえとはもう会えなくなる、声を聴くこともかけることもできなくなる。その別れが残念だ……という意味だったのだろうと、僕はいまでも思っている。僕はもっともかわいがられた初孫だったから。
生前にはいろいろと迷惑をかけられて、祖父にはうんざりしていたが、そのとき僕はもうすべてを許そうと思った。力なく握られた指先から流れ込んでくる圧倒的な感情の波に僕は押し流された。
それから5日後、しんしんと雪が降り積もる明け方に祖父は息を引き取った。その数時間前、どんどん冷たくなってゆく手足をみんなで泣きながらさすり続けた。呼吸がだんだん浅くなって、やがてヒュッという小さな音がしたあと、もう戻ってこなかった。あの圧倒的な肉の冷たさを指先が覚えているから、自分の手足が凍えると病室で過ごしたあの数時間のことを思い出す。
朝、新潟県全域の雪雲が除けられて、透明な青空が広がった。病院の入り口で、時間つぶしに薄く張った氷を靴先で破るたび「パリン、パリン」と脆いガラスが砕け散るような音がした。「しみわたりだよ」と母が言った。
雪の上を渡ってくる風がやけに冷たかった。コートをかき合わせてクルマに乗り込んだ。祖父を乗せて自宅へ向かう霊柩車に続く車列に加わった。みな黙りこくっていて車内は静まりかえっていた。そんなことを記憶している。
不可逆的に流れていく時間の中で、僕らはどうしたらよく生きてゆけるのだろうと思い悩む。いまから16年前、僕は「じいちゃん、立派だったよ」と思うにいたった。それ以前から僕は「死」というものをあまり恐れてはいなかったが、祖父の死に目に立ち会ってからさらに恐れはなくなった気がする。「死」を目撃しても僕らは生きてゆかねばならないし、生きてゆく。そしていつか自分の死を受け入れる。そういうものなんだと。
えらそうなことを言ってきましたけれど、別に達観しているわけじゃないんだ。
どんな形であれ「さびしいな」……そんな気持ちは自分の死の間際まで残るんだと思うから。
"Death Education"絡みでいくつか絵本が紹介されてます。
そのうちの一つ"いつでも会える"は、引用された見開き1ページで号泣させられました。
by cool-october2007
| 2007-02-11 16:36
| 日常生活